阿蘇の大草原を守るために
熊本県・阿蘇の山道を登ると、風が吹き抜け、海 のように大きな草原が広がっています。この草原 の景色は、訪れる季節によって色が変わると言わ れています。緑色、黄緑色、黄金色、枯色。

そして、 毎年春先の2~3月頃には、“ 黒色” になります。 2023年12月、NPO法人グリーンズと公益財団 法人阿蘇グリーンストックが共同企画したツアー 「リジェネラティブツーリズム in 阿蘇」が開催され ました。
このツアーは阿蘇の草原を体感しながら、 いかに生態系が維持されているのかを学ぶことが できるもの。「リジェネレイティブな観光」をいま阿 蘇で企画する意義について、グリーンズ共同代表 の植原正太郎さんは以下のように説明します。 「 気候変動の影響が顕在化するなかで、サステナ ブルな社会の実現を目指す動きが活発化してい ます。

しかし、人間がこれまで壊してしまった生態 系の回復までを目指さなければ、もうすでに地球 には住めなくなってしまう状況になりつつある。目 に見えない土中環境や水、空気までを観察して、 いかに人間が介入して守っていくか、再生してい くかを考えなければなりません。
そうした観点か ら、『野焼き』という文化が1万年以上も続き、人 が手を入れることで維持されている阿蘇の草原 は、非常に面白い生態系だと思っています。
「野焼き」が生態系維持につながる理由
なぜ、草原を燃やすことで生態系が維持される のか。その点について語ったのは、阿蘇グリーンストック専務理事の増井太樹さんです。
草原研究 の第一人者であり、全国各地の草原をフィールド ワークする増井さんは、「本来、日本のような温暖 湿潤な地域では自然状態では草原は成立しない」 と指摘します。モンゴルやサバンナなど、自然状 態で維持されている草原と比較すると、日本の草 原は“ 人の手” が入ることで維持されてきた生態 系なのだそうです。 増井さんによれば、驚くことに、かつて日本の 国土の約10%は草原だったそうです。
1950年代 以前、エネルギー革命前の農業は、草を肥料に、 牛馬をトラクターの代わりにして発展しました。当 然、肥料用と牛馬の餌用の草が大量に必要となり ます。そこで、人々は野焼きで草原を作り出し、その草を使って循環型農業を維持してきたのです。
しかし、現在は国土に占める草原の割合は1%以 下。旧来の農業が廃れ、人間が手を加えなくなっ た草原は、そのまま木が生えて森へと変わってし まったそうです。
しかし、ここで一つの疑問が浮 かびます。「それでいいのではないか?」「自生す る草木に火を放つ野焼きは、むしろ環境に悪影響 ではないか?」……この問いに対して増井さんは 答えます。
「 阿蘇の草原の土はクロボク土といわれ、炭素を 多く含む土です。この土は野焼きによってできる と言われています。また、土壌中の微生物資源が 豊富で、草原の土壌は微生物資源の『銀行』とす ら言える状態を保っているんです。野焼きの時は 土の表面に堆積している枯草が3分間ほど燃える だけで、土中温度はほとんど変化しません。火が 消えた後に土の中を覗いてみると、新しい草の芽はダメージを受けずに残っている。むしろ表面の枯草が燃えることで、元気な新芽が育ちはじめ生物多様性の高い草原が維持されているのです」
放牧飼育されたあか牛の可能性
火は破壊ではなく、循環と再生を生み出してい る──このように火の存在が自然の営みに組み込 まれている、「火の生態系」と呼べるような地域も あるそうです。カリフォルニアやオーストラリアで は、火による攪乱がないと発芽しない植物もあり、 地域の生態系に火という攪乱が重要であった。

しかし、人間の過度な自然への介入によって、森林 火災は抑制され、森に過剰に枯草が蓄積し、いま では強すぎる火で生物を焼き尽くす現象になって いるのです。 一方、野焼きは英語で“Control Burning”と 呼ばれています。
阿蘇では秋に「輪地切り(防火 帯づくり)」、そして春の野焼きの技術で燃やす範 囲をコントロールし、安全に草原の枯草を燃やす 技術を先人から受け継いできました。
これによっ て、より多くの炭素が土中に蓄積され、翌年には 新たに生え変わった多種多様な植物が混成する 草原が生まれます。
そこでのびのびと放牧されて育つのが、阿蘇で 伝統的に飼育されてきた「あか牛」です。近年、阿 蘇では草原維持のための放牧に注目が集まっています。

かつての草原を中心とする循環型農業の営みが廃れてしまった今、人々には草原を維持するモチベーションが生まれづらくなっている。そこで阿蘇グリーンストックでは、放牧されたあか牛を一頭買いしてきちんと消費者に伝えるプロジェクトを地域の畜産農家とともに実施してます。
「こうして放牧飼育されたあか牛は、食べるほど草原の生態系や炭素蓄積を回復させる可能性があり、もっと取り組みが広がってほしい」と増井さんは期待を込めます。
「羊の放牧」というアプローチ
同じく草原維持を目的としながらも、「羊の放牧」という異なるアプローチを始めたのが阿蘇 さとう農園です。
通常、牛の放牧には1頭あた り約1haの草地が必要になりますが、羊は同じ 面積に約50頭、1/10のコストでの飼育が可能 です。広大な阿蘇の草原の持続可能性を守る ために、誰もが参加できるような「小型畜産」の モデルケースを作ることが目標だと代表の佐 藤智香さんは語ります。
「 草原の維持管理を目的に、羊という家畜を選 択して2020年から放牧をはじめています。草原 を生かして、羊肉だけでなく、羊毛や油、皮まで すべて無駄なく活かしながら、阿蘇の新たなブ ランドを作っていく。
そのために羊の精肉加工場を建設したり、洗剤を一切使わないウールの製法を開発したり、地域の施設と連携して製造体制を整えたりしています。

羊を放牧すれば、それだけ使われていない草原を生かせるので、今後は地域に羊を普及させるために大幅に頭数を拡大していく予定です」人間の暮らしにとっても、生態系にとっても良い自然の状態を保っていく──その調和が野焼きと草原の関係性にはあります。
今回のツーリズムでは、いち観光客としてそれを経験しながらも、輪地切りのボランティアなどを介して地域社会の再生にも携わることができました。参加者同士が共に、学び、働き、味わい、語る。
阿蘇の豊かな資源に五感を刺激されながらも、何よりも大草原に立ち尽くす時間が得がたい貴重な経験だった、と訪れた方々は感じるでしょう。